東陽片岡インタビュー7 – お風俗漫画の取材は原稿のギャラより高かったの巻

今回は、東陽さんの趣味である熟女風俗のお話。収入の大半を使って渡り歩いたホテトルや男女交際クラブについての体験談は『うすバカ風俗伝』『熟女ホテトルしびれ旅』に収録されています。インタビューとあわせてご参照ください。【インタビュー目次

 

――1994年『月刊漫画ガロ』に入選されて、その後は漫画専業で行こうという決意は?
東陽 そういう決意みたいのはなかったね。

――入選後は漫画の依頼が継続してあったんですね
東陽 自分の描きたい世界が開けたなっていうんで、嬉しくて、どんどん描いてた感じだよ。そうすると、面白いことにポツリポツリと注文が来始めてね。その頃は、格闘技雑誌とエロ本の割付デザイン作業を並行してやってたんだけど、うまい具合に仕事の分量が逆転していってね。絵の仕事が増えて、そこで自然に割付デザインの仕事は、辞めていったんだよ。

――ここから絵の仕事で食っていけるように
東陽 そうだね。

――漫画のデビューは 三十代半ばなんですね
東陽 35だからね。何でも遅いんだよ。包茎手術も遅いし、デビューも遅い。

――包茎手術(インタビュー3参照)の後は色々と遊びまくられた
東陽 そうそう。もし、真性包茎の人がいたらね、すぐ手術したほうがいいという気がします。自分が今までずうっと真性包茎のままでいたら、どうなっていたか考えるときがあってね。当時、皮の先端が1センチぐらい余ってたけど、それがもう3センチぐらい余るようになってたかもしれない。

――西洋のダビデ像とか
東陽 そう、昔のギリシャ彫刻とか、ああいうのを見るとね、包茎が多いんだよ。

――亀頭が露出してると怪我したとき危ないですものね
東陽 だからみんな昔はあれでよかったんだよ。その代わり、チンカスだらけでさ、女の人はたまったもんじゃないよね。

――40代の頃には漫画の単行本も複数出ましたね
東陽 そうだね、40代が一番充実してた。忙しかったのは40代だね。

――48歳の頃に『うすバカ風俗伝』が出ました。最初、風俗の取材は自腹だったとか
東陽 そう、漫画のネタが浮かばないんで、しょうがないから行ったお風俗の話でも描こうかっていう感じで始めて、そうしたら、いくらでも描けるんだよね。それから結局、原稿のギャラよりお風俗代が高かったこともあったりして。


――デリヘルは、昔だとホテトルって言ってましたね
東陽 三行広告なんてのが昔あってさ、内外タイムス(首都圏の夕刊紙)とか見て、ホテトルのお店に行くと100%本番だよね。今は、デリヘルなんつって、警察に届け出をしなきゃいけない。警察の目が光ってて、迂闊なことは出来ない。いちおう建前上は本番無しなんだけど、その建前を掲げると、お姉さんも楽できる。気に入らない客がいたら本番禁止。ちょっとノリのいい客がいたら本番させちゃう、なんて。

――もうその頃はソープランドよりホテトルに行く機会が多かったんですか
東陽 最初はソープランドの「大塚角海老」。そのあと、おセックスするのは、ほぼ熟女ホテトル。何でそこがいいかって言うと、ソープは建前上マッサージ台の硬いベッドなんですよ。あそこで、作業しなきゃいけない。熟女ホテトルの場合、ラブホのふかふかのおベッドで作業できるからね。

――金額的にはソープよりホテトルの方がちょっと高いんですね
東陽 駅前ソープなんかに比べたらね。だけど、お姉さんがノッてくると、もう一回しようなんて言い始めることもあるんだよね。

――風俗系の雑誌のモデルみたいなのもやられてた?
東陽 アルバイトでね。日刊ゲンダイだとか情報誌のエロページ向けの取材だよ。お風俗紹介記事に掲載する写真のお客さん役。仲良かった編集プロダクションが高田馬場にあって、「お客さん役でちょっと来て」なんて言われてね。よくやったんですよ。

――そのバイトで何か性的なサービスを受けるようなことがあったんですか?
東陽 その風俗店が売りとしてるプレイを実際にやってもらってたよ。だけど、目の前にカメラマンの人がいて、撮影中は人が見てるし昇天できない感じだね。だけど、高田馬場の素股のベテラン嬢がいるお店に取材に行ったときは、我慢できなかった。お姉さんが仰向け状態で手をアソコにそえて、正常位の形で素股の作業をするんだけどね、あのときは撮影中にも関わらず気持ちよくてイッちゃったんですよ。そういうときもあるわけね(笑)

――昇天するところを人に見られてどうでした?
東陽 なんかね、人前でうんこできないでしょ。それと同じだよね。それがAV男優ってのはみんなできるんだ。すごいよね。

 

東陽片岡インタビュー8へ続く

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