インタビュー6回目は、東陽さんが身請けしたタイ人女性のお話。バブル期の日本は、東南アジアからの出稼ぎ女性が多く、特にタイ人女性は3万人近くがスナックなどでホステスとしての仕事に従事していたようです。【インタビュー目次】
――スナックに初めて行かれたのは20代の後半ですか?
東陽 そうだね。おスナックなんて昔は結構高いんだよ。貧乏な連中はさ、大体1000円2000円くらいで飲める大衆居酒屋に行くじゃない。で、そこからおスナックに行くとすると、3倍くらい料金いっちゃうからね。昔は敷居が高かったよ。ようやく28ぐらいから行けるようになった。
――千葉の茂原のスナックに通われてたそうですが、何かきっかけが?
東陽 あのね、これ、話すと長くなるんだけど、端折って言うと、昔、格闘技雑誌の仕事をやってたとき、ムエタイ見学ツアーがあって、タイに行ったんだ。そこで知り合ったタイ人のお姉さんがいて、文通を始めたのよ。当時、バブルの頃で、儲かるからっていうんで、タイ人が日本に来るんだ。女の子が売春して稼ぐルートがあって、その子、それで日本に来ちゃったのよ。で、向こうから来る人は、ビザとか無いから、350万円借金して闇ブローカーで偽造パスポート作ってもらって、売春おスナックで働いて借金を返していく、そういうルートが昔はあったの。で、初めは茨城の鹿嶋のちょっと奥の方にある田んぼの真ん中にポツンとあるような辺鄙な売春おスナック、そこに来ちゃった。しばらくして、鹿嶋から千葉の茂原に移って、そこでスナックを始めたんだ。「かたおかさん、あそびにきて」って言うから「じゃあ行くよ」って。茨城も茂原も電車に乗って、毎週通ってたんだよね。
――茨城とか茂原とか都内からだと相当遠いですよね
東陽 遠いよね。特急乗って行ったんですよ。
――で、借金はどうなったんですか
東陽 お姉さんは借金をうまいこと返済してね。俺もだいぶ使ったけど、とりあえず350万円ぐらい返済し終わって、お姉さんが自由の身になった。「じゃあ、うちおいで」って言って、当時、(東京都新宿区)市谷台町の六畳一間の狭いマンション。そこで一緒に生活を始めた。
――それ、闇ブローカーって、ヤクザが裏にいるんですかね
東陽 いるんだろうね。日本人とタイ人がどのように連携してやってるのか、未だにおれもわからない。でも大体タイ人がメインでやってるよね。
――しばらく一緒に住んでたとき、東陽さんは身を固める決意もあった?
東陽 まあそうだね。今考えると微妙に疑心暗鬼でいたけどね。
――同居生活はしばらく続いたんですか
東陽 5ヶ月たったら、ある日、帰ってこない時があって、晩にFAXがいきなりピーって鳴って、カタカタって紙が出始めた。見たらね「わたし、タイかえります。いままでありがとう」みたいな、そういう文章で、発信元見たら、新大久保方面のコンビニから発信してて、びっくりしたよ。で、それっきり。
――実際にタイに帰っちゃった?
東陽 そう。帰っちゃったんだよ。だけど、後日談があって、数年後、飲み屋の夫婦とタイ旅行したときに、
――その後、連絡は取ってたんですか
東陽 その頃、暑かったんだけど、その縫製工場にクーラー無かったんだよ。クーラーまで金かけらんなかったらしくてね。旅行から日本に帰ったら、その子から「クーラーほしいな」とか連絡があって、しょうがないから、20万ぐらい新橋のバンコク銀行から送金してやったの。「ありがとう」ってお礼があったね。それからしばらくして、1997年にタイのバーツが下落した通貨危機があったんだ。西洋のヘッジファンドが仕掛けて、タイのバーツがめちゃくちゃ下落して銀行員が屋台のラーメン屋まで落ちぶれちゃうみたいなアジア通貨危機だね。その時に、やっぱり影響あったらしくて、手紙が来たんですよ。「かたおかさん、たちけてください」って書いてあって、経営に行き詰まったらしくて。だけどそう言われても、
――連絡先はもうわからない?
東陽 そうだね。昔、手紙が来てた頃は住所わかってたけど、手紙も全部捨てちゃったから。その頃ちょうど漫画描き始めててね。漫画の世界に行ってたから。
――今、何してるんでしょうね
東陽 華僑系のタイ人だったから、商才豊かだからね。なんとかやってるんじゃないの。
――じゃあ、顔立ちは典型的なタイ人って感じではないんですね
東陽 じゃあないね。中国系だよ。タイのこと、ネットでちょっと調べたけど、今は日本人なんてのはもう優遇されてないみたいだね。今一番の金づるは中国人・韓国人。
――その頃、ガロに入選された?
東陽 タイに行ってお姉ちゃんに再会したときは、もう青林堂から初めての単行本(『やらかい漫画』)が出てたんだよね。