インタビュー第2回目は、衝撃的な初接吻とアルバイトのお話。インタビューに出てくるピンクキャバレーとは、性的なお触りサービスがある業態のお店です。【インタビュー目次】
――二十歳頃に初めてピンクキャバレーに行かれたとか?
東陽 6つ歳上の悪いいとこがいてね、そいつに連れられて。そいつは常連ってほどでもないけど、よく行ってたらしい。新橋のロンドン。当時、ロンドンとかハワイとか、外国の名前をつける店はピンクキャバレーなんですよ。そこに行ったら、隣に汚いババアが座って、あちこち触らせてくれて、膝の上に乗っかってきたりしてね。「お兄ちゃん、財布持ってる?」って言うから、財布出したら、五百円札しか無い時代、「しけてるね」なんて言われた。ようするにちょっとチップくれたら、いい事してあげるわよ、なんて魂胆だったんだ。
――あそこを触らせてくれたり?
東陽 でもそんな小汚ねぇババア、触っても感じないからね、こっちも。で、落胆して帰ろうと思ったら、急に綺麗なお姉さんが来て、ブチューっとね、お別れの接吻してきたの。そして、口にカルピスを含ませて、口移しに飲ませてくれた。人生はじめての接吻でね。新橋キャバレーロンドンのお姉さん。
――相当衝撃的な?
東陽 衝撃的! 酒飲んで酔っ払ってたけど、速攻で家帰ってオナニーしてね。
――料金は高かったですか?
東陽 それはいとこが全部払ってくれた。1万ぐらい取られたと思うよ。
――その当時はまだ学生ですか?
東陽 浪人生だったね。
――浪人時代のバイトはどんなことを?
東陽 その頃のバイトは、製本屋とお中元・お歳暮の倉庫仕事。それがメインだったね。
――裏方的なバイトが好きだったんですか?
東陽 単純作業が好きなの。昔はアルバイトニュースって雑誌が毎週出ていた。そこに「誰にでも出来る簡単な作業」っていうフレーズでね、いろんな募集があった。重労働じゃなくて、アホでも出来る簡単な仕事、それをメインに探してた。そういう仕事って、製本屋が多いんだけど、そういう単純作業、大好きなんです。大日本印刷は日当でくれるからよく行ったね。時給500円で8時間労働だと4000円。(源泉所得税)10%引いて、3600円を帰るとき、薄いペラペラの茶封筒に入れてくれるんだよ。
――製本会社のバイトって、どんな内容?
東陽 軽作業だね。出来上がった本をガチャンガチャンって、結束機を使って紐で束ねる。それで、次から次へと、8時間ずうっとやるわけ。
――その頃はインベーダーゲームが流行ってたと思うんですが、遊ばれました?
東陽 あれは昭和53年だよ。当時インベーダーなんてのは、世の中一大ブームになってて、よくやったね。ゲーセンなんて、近所にはなかったんだけど、喫茶店にインベーダーゲームが置いてあって、もっぱらそこに行ってた。喫茶店は、その当時いっぱいあった純喫茶です。『白鳥』とか立派なソファのある喫茶店ね。当時、喫茶店に行くの大好きだったから、アイスコーシー飲みながらタバコ吸ってね。そこにインベーダーゲームが置いてあるから、ついついお金を入れちゃうの、そうすると楽しくてね。あの時は、プレイ料金が100円だったんだ。高いよね。研究してやってる人もいた。「名古屋撃ち(※)」なんて攻略法があったんだよ。
※名古屋撃ち:自機である砲台より一段上にいるインベーダーの攻撃が、砲台をすり抜けるバグを利用した攻略法。名古屋のプレーヤーが発見したことから名付けられた。
――美術系の予備校に通ってたんですね。
東陽 御茶の水美術学院。あそこに行ってた。3浪です。
――東京藝大を目指してたとか?
東陽 藝大受験しててね。学費が安いし。結局ずうっと落っこち続けてた。グラフィックの商業デザインとプロダクトの工業デザインとあって、私立の美大はそれぞれの科に分かれてた。俺が志望した工業系ってのは募集人数も少ないし、難しいんだよ。なかなか受からずにいて、結局、多摩美術大学のグラフィックデザイン科をたまたま受けたら入っちゃったみたいな。
――藝大を目指してる浪人生って、3浪とかザラにいた感じじゃないですか?
東陽 いっぱいいる。OCHABI時代はね、6浪なんて人がいた。6浪ってことは自分の3つ上なんですよ。6年も浪人すると、貫禄が出てくるんです。石膏デッサン描かせても、6浪流の石膏デッサンが出てきてね。その人は先生から嫌われてたけどね、何とも言えない。でも結局藝大受かったから、根性があるんだよね。
――基本的に美術系の大学受験っていうのはデッサン?
東陽 デッサンですよ。石膏デッサン、静物デッサンをさせられる。で、彫刻・油・日本画のファインアート系だと人体デッサン。俺はファインアート系じゃないから、あんまり人体やんなかったんだよね。
――デッサン以外の学科試験対策というのは?
東陽 なんもない。ひたすら毎日静物画、石膏デッサン、そして平面と立体構成の実技だけ。美術系の予備校では学科なんてのは教えない。今はわかんないけど、美術大学ってのは、例えば、同学年の油絵科のお姉ちゃんがいるんだけど、その人、英語0点で入ったって言ってたからね。後で調べたらしくて。油絵科だから、逆に言ったらすごいよ。よっぽど実技が良かったんだ。
――本当は工業デザイン、車のデザインがしたかった?
東陽 したかったんだけど、落ち続けて、しょうがないからグラフィックデザイン科っていうのがあって、平面デザインっていう、そこを受験したらたまたま受かっちゃって。あまり工業デザインに対しても真剣じゃなかったんだね。グラフィック受かっちゃったから、まあいいやって、多摩美行っちゃったから。
――大学時代のアルバイトは何を?
東陽 多摩美術大学に入ると学校内で先輩がよくやってるアルバイトがいっぱいあって、それを紹介されて、先輩が「おまえこっちに来い」って、依頼がくるわけ。よく行ったのが、デパートの内装の飾り付けの仕事。高島屋とか、そごう、伊勢丹もやったし、三越も。そのバイトは、デパートの休日を挟んで、前の日の夜から翌日の開店までぶっ通しで作業するんだ。あれは時給がよかった。当時、大日本印刷なんて時給500円だったのが、内装の斡旋やってた乃村工藝社ってところは、時給1030円。2倍以上だね。そのバイトは楽しかったよ。高島屋かどこか忘れたけど、火曜か水曜休みだったんで、前の日の閉店間際に従業員のお姉さんたちが、リラックスし始めるんですよ。俺たちバイトが入ってきた時にお姉さんたち、さっさと帰りゃいいのに売り場のちょっとした小上がりのステージにちょこんと座ったりして、少し股を広げてね。挑発するようなお姉さんがいたね(笑)