東陽片岡インタビュー1 – 便所を改装した子供部屋は牢屋のように暗かったの巻

秋田ぶるうすホームページ開設を記念して、当店マスター東陽片岡へロングインタビューを敢行。第一回目は、幼少期に暮らした町と当時の趣味や遊びについて伺いました。【インタビュー目次

 

――それでは、色々お聞きしたいと思います。ご出身はどちらですか?
東陽 東京都板橋区仲宿の出身。昭和33年、仲宿のアパートでね。その頃の記憶はおぼろげにあるくらい。それから、昭和37年、4歳のときに(東京都北区)上十条2丁目に引っ越して、それからずっと昭和46年、中学1年まで十条だね。

――十条に引っ越してからが、そこそこ長いんですね。
東陽 そういうことだね。貧乏な町並みっていうか、心象風景的には十条のしょぼくれた貧乏な雰囲気っていうかね。そういう記憶ですよ。

――当時、十条ではどんなことをして遊ばれてたんですか?
東陽 小汚いアパートの1階に住んでたんだけど、うちの2階に住んでたお姉さんがね、定期的に週刊実話とかいかがわしい週刊誌や漫画雑誌を廊下に置いておく習慣があって、学校から帰ってきたら、そのエロページを真っ先に見てた。巻末グラビアで折りたたみ式のエロ写真が付いてたから、それを見て興奮してね。それから遊びに行くんですよ。小学校低学年の頃は、公園に行って、野球をよくやってたね。

――漫画は、その頃から読むようになったんですか?
東陽 漫画はね、昭和40年には少年サンデーを読んでたね。赤塚不二夫の『おそ松くん』、藤子不二雄の『オバケのQ太郎』とか。

――ギャグ漫画が好きだった?
東陽 昭和44年頃は、少年マガジンの表紙を横尾忠則がやったり、『天才バカボン』が見開き1ページを1コマにした漫画とか、わけのわかんないことをやって、凄まじかったね。昭和44、45年ぐらいのころは、谷岡ヤスジの『ヤスジのメッタメタガキ道講座』とか「鼻血ブー」が流行語になったり、もうギャグの世界がしっちゃかめっちゃかだった。あの時、小学校6年だったから、ああいうイメージに直撃を受けて、それがいまだに続いている感じだけどね。

――昭和43年だと『ハレンチ学園』があったりとか?
東陽 あれは少年ジャンプだよな。ハレンチ学園は愛読はしてなかったけど、学校でスカートめくりなんて流行ってた。子供向けのエロネタが始まった頃だね。

――13歳でまた引っ越しですね。
東陽 東武東上線の上板橋に引っ越した。

――十条と違ってました?
東陽 ぜんぜん違う。十条は密集した十条銀座と富士見銀座を中心とした商店街文化だからね。上板橋は普通の住宅街でつまらなかった。住宅街っていっても、うちは、二軒長屋の一階建てで木造の小汚い借家に住んでたよ。

――十条ではどんな遊びを?
東陽 近所の公園に行って缶蹴りをやったり、あとたまにうちの近くにある帝京高校のお兄ちゃんが、子どもたちを高校のグラウンドに入れてくれて、野球やって遊んだ記憶がある。野球好きだったからね。あと、朝鮮中高等学校の横に4階建ての小さい団地群があって、その団地のせまいスペースで三角ベース野球とかね。ただ、せまい空間でやる時は、軟球じゃなくて、ゴムまりでやってたね。軟球は飛ぶし、窓ガラス割ったら悪いから。

――東陽さんはお姉さんが一人いらっしゃるそうですが、何か趣味で影響を受けたりは?
東陽 上に兄弟がいる家庭は皆そうだと思うけど、上の人間が先に生意気な音楽を聴き始めるんですよ。俺らの世代だと上の人間はビートルズなんて聴き始めてね。後は、60年代末のポップスとか。そういう人たちの買ったシングルレコードを下の弟妹連中が聴いたりしてね。当時、レコードプレーヤーたって コンポーネントステレオじゃなくて小さいプレーヤー。それで、洋楽なんかも聴いたりはしたよ。

――ムード歌謡好きは特にお姉さんの影響とかではなく?
東陽 昔はね、おムード歌謡の「東京ロマンチカ」「ロス・プリモス」なんてのはね、年中テレビでやってた。子供ながらに、いいなぁなんて、やっぱり思っちゃいますよ。(黒沢明とロス・プリモスの)『ラブユー東京』なんてのは、当時、ジャイアンツV9時代、ピッチャーの堀内恒夫が十八番でね。スポーツ選手が出演するようなテレビの歌番組があったりすると、堀内投手が出てきて、必ず『ラブユー東京』を歌うなんてね、よくありましたよ。

――最近、スポーツ選手が歌番組に出なくなりましたね。
東陽 もうね、寂しいよね。ちょんまげ結った相撲取りだと、増位山なんて、稽古しながらテレビの歌番組に出てね。『そんな夕子にほれました』ってレコードを出して、それが大ヒットして、その気になっちゃった。それから『そんな女のひとりごと』なんてレコードも出して、それもヒットして、そのあとに大関になったからね。そうやってテレビ番組に出まくりながら、相撲も取る。そうじゃなきゃ駄目だよ。

――上板橋はいつ頃までいらっしゃった?
東陽 上板橋は、昭和46年から昭和57年まで11年間住んでた。その11年間が、おそらく自分の体質を確定しちゃった時期だと思うね。便所を改装して三畳に広げて作った部屋に11年間住んでたんだけど、その部屋は昼も暗いわけだよ。便所の小窓が上下に2つあるだけだから。そういう普通の部屋じゃない、まるで牢屋みたいな部屋に11年間暮らすとね、多分、人格形成に大きな影響があったんじゃないかなって、今はしみじみ思います。

 

東陽片岡インタビュー2へ続く

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